五劫の擦り切れ 光勝寺のごえんさんの独り言

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zoom RSS 教信沙弥

<<   作成日時 : 2013/10/10 00:50   >>

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一瞬ぎょっとしませんか?。これ生首です…って、もちろん本物じゃなく、木彫りの彫刻ですが。
実はこの首は、教信沙弥(きょうしんしゃみ)、あるいは、加古の教信と呼ばれた、お坊さんの首です。
兵庫県加古川市の野口というところにある教信寺というお寺に祀られています。

教信は元々、奈良の興福寺の高僧でした。ところが、ある日本当に救いを求めている民衆に仏教の教えが届いていない現実(奈良時代の仏教ですから、天皇とか貴族だけのものだったんですね)に、直面して、寺を出て放浪の旅の果て、山陽道の大きな宿場だった野口に流れ着きました。
そこで教信さんは縁あって結婚して家族を養いつつ、お念仏の教えを広めて行かれました。荷車の後押しなどして、わずかな日銭を稼いでいたんですね。

で、教信さんが死なれたとき、家族はお葬式を出すお金もなかったので、遺体を外に捨て(今なら犯罪ですが、昔の日本では当たり前に行われていたんです。例えば京都の化野、鳥辺野、蓮台野、など野がつく地名、昔は遺体捨て場で、烏や野良犬に食われ荒らされて、白骨ゴロゴロだったんです)
ところが、教信沙弥の遺体も食い荒らされたのに、顔だけは荒らされず、微笑みをを浮かべていた…それを彫刻にしたのが、冒頭の首です。

私、15年くらい前に、この首をまじかに拝ませていただいたことがありました。大谷派僧侶の研修会でお邪魔したんですが、本来はお堂の中に安置されていて、年に一回だけ外から拝めるだけなんだそうですが、このお寺、阪神淡路大震災で、加古川市内で唯一お堂が全壊してしまったんで(震災から10年ぐらいたってましたが、お堂は壊れたままロープで囲ってありました),庫裏の床の間に安置されていまして、間近で拝観できたわけです。写真も撮らせていただきましたが、その時に一人の住職が「これ、地震で壊れて首だけ残ったんですか?」と、アホな質問をして、お寺のおばあちゃんに「あんたら坊さんなのに、そんな事も知らんと来たんかいな」と、呆れられてしまい、教信沙弥の物語を延々聞かされるハメに…。

実は、親鸞聖人の理想も教信沙弥だったんですね。そのことを述べておられますし、「わしが死んだら、鴨川へ投げこんで魚のえさにしてくれ」なんて言われてます。何より、自ら寺を去り、民衆の中にあって仏道を生活とされた生きざま、何より結婚をされた事実、親鸞聖人も恵信尼(玉日姫)という奥さんと子供たちとの生活の中で念仏の教えを広めて行かれたわけで、親鸞聖人にとって、教信沙弥は、偉大な先輩であったわけです。
また、教信さんは沙弥と名乗っていますが、これは出家したての小僧さんを意味する言葉で、間違っても、かなり上の位まで行った方が名乗るような肩書きじゃありません。これは親鸞聖人が、自分は「坊さんでも一般人でもない(非僧非俗)」として、愚禿(ぐとく)親鸞と名乗られたのと共通しています。ここでいう「禿」…は「禿居士(とくこじ)」のことで、ツルピカという意味ではなく、ちょっと毛が伸びてきた状態、スポーツ刈りぐらいの頭で、頭を剃ってない…戒律を破っているとんでもない坊さんのこと、「禿居士」というのは、相手の坊さんを侮辱することばです。それをあえて、名乗られた親鸞聖人の勇気はすごいと思います。

なお、教信寺は、現在は立派に復興されています。場所的にはJR加古川駅と東加古川駅の真ん中ぐらいで、ちょっと不便ですが、訪ねる価値はありますよ。
ちなみに…教信沙弥が暮らした野口宿は、もう少し西に行った加古川という大きな川のそばに新しい宿場ができて(今の加古川駅のあたりです)廃れてしまいました。
西に行く人は、「とりあえず川のまで行ってしまえ」、西から来る人は、「大きな川を渡ったから、今日はここで泊るか…」で、野口に泊る旅人がいなくなっちゃったようです。昔は国鉄高砂線の野口駅もあったんですが…。



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